神社の由緒

 当神社は、菅原道真公が九州左遷の際宿泊されたゆかりの地に、永延元年(西暦987年)1月、菅公と武神八幡大神を鎮守神として創祀され、更に明治41年に池之宮明神(別名鳴滝明神)が合祀されました。

 

 昌泰4年(西暦901年)菅公が大宰府への赴任の途中立ち寄られ、板で囲った簡単な宿泊所を設けたことから、この地を「板宿」と呼ばれる由縁となりました。

 

 菅公が京都で大切にされていた桜は枯れ、梅は旅の途上芳しい香りを届けてくれました。しかし松は素知らぬ様子でした。

 

 菅公は次のような詩を詠まれました。

 梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 

        何とて松のつれなかるらむ

すると一夜にしてこの地に松が飛来してきたそうです。当社周辺の「飛松町」「飛松中学校」等の名はこの伝説にちなんだものです。

 

飛松(切株)
飛松(切株)

 「飛松」は、高さ30メートルもあったとされ、紀淡海峡を渡る船人はこの「飛松」を目印にして針路を定めていたそうです。(『西摂大観』より)書物では、『摂陽群談』(西暦1701年)等に紹介されており、大変立派な松であったことが伺われます。

 

 大正時代には、大きな樹木ゆえに数回の落雷にあい、枯死しました。現在は切株が天神社に奉斎されており、「大宰府の飛梅」と並んで「板宿の飛松」と慕われています。

 

 池之宮明神(鳴滝明神)のご祭神は大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト)で、天照大御神の別名をいわれています。 現在の明神町1丁目に鎮座され、旧社格は村社(村を代表するお社)で、境内敷地は1ヘクタール余りもあったそうです。 お社の東側には、たびたび氾濫していた妙法寺川(鳴滝川)が流れており、水田多かったこの地域では、産業や治水の神さまとしてお祀りされていたと思われます。

 

 明治37年に、神職不在のお社や基本財産不足のお社に合祀を促す法令が出され、明治41年に当神社に合祀されました。

神社周辺

 神社は上野山に鎮座されていますが、神社を囲む全体を得能山といいます。 由来は建武3年(西暦1336)新田義貞軍に属し、湊川の戦いで足利尊氏を迎え討つためこの山に陣を張った四国伊予の豪族 得能通俊がその合戦で自害しましたが、同氏を山上の葬ったとする説があります。

 

 大正12年に同山を開拓した時、推定4世紀の竪穴式石室が発見され「得能山古墳」と命名されました。  そこから人骨(女性)と二面の鏡、刀剣等が出土し、現在東京国立博物館に保管されています。

 

 明神町1丁目に鎮座されていた池ノ宮神社付近でも古鏡四面が掘り出された記録がありますが、残念ながら現在古鏡の行方は不明です。

 

 当神社から西に続く丘陵は、「飛松が岡」又は「松岡」と呼ばれ、丘陵の西には『太平記』にも出てくる「松岡城」があったとされます。

 

 また、当神社は「須磨アルプスコース」の一部になっており、多くの登山者が訪れます。